研究会では、出版された書籍や発表された論文等をベースにして、研究会としてロマン(物語)について、
分かりやすく説明できるように取り組んでまいりました。
取り扱うテーマは「北前船ロマン」のページで紹介したものを、ロマン(物語)として一つずつまとめました。
新たに第3部(スポット編)の連載に追加したのは
2025年4月
第13章 松前藩の誕生と特異な経済基盤、そして背後に迫るロシアの脅威(rensai13Nv1.pdf へのリンク)
松前藩が蝦夷地の南端の渡島半島に誕生しました。寒冷地で米の収穫がなく、収入はアイヌ人との交易に求める特異な経済基盤でした。
当初の交易はアイヌの集落(場所)に出向いていましたが、場所の拡大と、商取引に長けた商人に場所運営を委託する場所請負制に転換しました。
そのため、藩とアイヌとの接点がなくなり、アイヌからの情報も途絶えてしまいました。
一方で、18世紀には隣接するロシアが千島列島を静かに南下し、日本との交易を求めて、皇帝の命を受けた遣日使節が蝦夷地の根室に来航しました。
幕府は「鎖国制」の堅持と領土を守るため、特異な松前藩に任せられないと蝦夷地の直轄化を決定しました。
松前藩という特異な藩の誕生から、幕府による直轄化までの歴史とその過程のロマンを探ります。
閲覧される場合は、( )中をクリックして下さい。
2024年8月(改訂)
プロローグ 「北前船ロマン研究」の旅に出よう(rensaiprNv1.pdf へのリンク)
北前船の船の特徴や、運んだもの、北前船が登場するまでの状況などを概略的にまとめました。
現代から北前船を見直す視点、ロマン(物語)研究の進め方なども説明しています。
研究会に入会された方は、まず、閲覧してください。
「第1部 北前船の誕生のロマン(歴史編)」
2024年8月(改訂)
序 章 船運に適した日本の地形と大自然環境のロマン(rensai00Nv1.pdf へのリンク)
日本は島国ですが、山地が75%もあり、高温多湿な気候で、河川には常時水が流れ、海との接点の河口部に港ができました。
日本海には北に向かう対馬海流や春夏には偏西風が吹き、秋冬はシベリア高気圧による南風が吹きます。
北前船は江戸時代に、大坂から瀬戸内海、そして日本海を北上して、蝦夷地を結び、その途中の湊に寄港しながら、商いをして利益を上げました。
北前船を生んだのは、日本の地形や自然が織りなす環境が船運に適していたからです。その具体的な自然環境を原理的に説明してみました。
(★自然現象を原理的に説明していますので、苦手な方は飛ばしていただき、第1章に進んでください★)
2024年8月(改訂)
第1章 「遷都」は水運が決め手となったが、京の「都」は1100年間続いた(rensai01Nv1.pdf へのリンク)
日本が一つの国家に統一され、大和に飛鳥京や、平城京の都が置かれました。周辺が山地に囲まれ、敵の来襲を天然の要害が防ぎました。
そこから流れ出す大和川は大阪湾に流れ、瀬戸内海を通じて、国内や中国、朝鮮と物や文化の交易が進みました。
人口が増え、手狭になった都は、大きな河川である淀川につながり、周辺を山で囲まれた京に遷都されました。
それから、京の都は1100年間持続しました。鎌倉・室町・戦国・江戸時代と歴史は変化しましたが、なぜ京の都は維持できたのでしょうか。、
2024年8月(改訂)
第2章 北前船の商いの基礎をつくった近江商人 (rensai02Nv2.pdf へのリンク)
京の都の東にある日本最大の湖である琵琶湖は、湖の船運が利用でき、東山道、北陸道、東海道を通じて、都と東日本を繋いでいました。
そのために戦国時代には琵琶湖を支配下に置くことが統一の近道と、幾多の武将や名将が歴史に名を残してきました。
全国統一が間近まできた「革命児」織田信長が、近江国に新しい商業のあり方として「楽市楽座」を推し進め、近江商人が誕生しました。
「諸国物産回し」と本店は近江に置く商法を基本に、バイタリティを発揮して商圏を全国に広げ、蝦夷地にも店を構えました。
米が収穫できない松前藩に米を運び、蝦夷地の物産を、傭船して日本海を運び、京や大坂で売却して利益を上げました。
2024年8月(改訂)
第3章 北前船の誕生の伏線となった西廻り航路の整備 (rensai03Nv2.pdf へのリンク)
北前船を語るに日本海から瀬戸内海、そして大坂を目指した「西廻り航路」との関係は欠かせません。
そしてその航路は河村瑞賢の知恵と工夫で1672年に酒田湊から日本海を南下し、赤間関(下関)を廻り、瀬戸内海を経て大坂を結びました。
では、なぜ、材木商人であった河村瑞賢が航路を開発し、天領からの御城米を、大坂そして江戸まで大量に運ぶことになったのか。
その歴史を紐解き、北前船が生まれる前のロマンを辿っていきます。
2024年8月(改訂) 2025年4月(一部改訂)
第4章 北前船の誕生(rensai04Nv3.pdf へのリンク)
河村瑞賢によって1672年に開発整備された、「西廻り航路」によって、蝦夷地と、日本海、そして瀬戸内海を結ぶ北前船の活躍する航路が準備されました。
ただし、船は幕府が傭船して米を届ける「賃積」の形態でした。北前船の定義の「買積」の形態が登場し普及するのは18世紀後半でした。
賃積船から買積船の登場まで、1世紀近くかかることになりました。
なぜそれほどの期間が必要であったのか。その経緯の中に多くのロマン(物語)がありました。そのロマンを辿りましょう。
2024年8月(改訂)
第5章 北前船の誕生と発展を支えた若狭・越前・加賀国の船主たち(rensai05Nv1.pdf へのリンク)
日本海という限定された領海ですが、激動の時代の流れの中で、活発に物資を搬送してきた廻船等の業者は生業を続け成長をしてきました。
18世紀後半に蝦夷地で商業を独占してきた近江商人が力を失う中で、それまで「賃積船」で発展してきた若狭・越前・加賀の廻船業者は、
その業態を新たな「買積船」という北前船の業態を産み出し、航路や業務の仕方を大変革することで、「1航海千両」という多大な利益を得ることになりました。
そこに至るまでの若狭・越前・加賀の国の船主たちを中心に辿る歴史的経緯のロマンの紹介です。
「第2部 北前船の活躍のロマン(エピソード編)」
北前船が搬送した物資や文化、寄港した湊や町などを歴史的なエピソードを中心に、そのロマンを説明をしています。
各回読み切りですので、興味のある章から、閲覧ください。
第2部の改訂版は作業を2024年10月で終了しました。
2024年10月(改訂)
第6章 北前船による「昆布ロード」-富山と薩摩を結んだロマン(rensai06Nv2.pdf へのリンク)
西廻り航路が整備され、「北前船」が登場し、蝦夷地の松前と大坂を結ぶ間の各湊に寄港しました。
その船荷で、各湊に昆布が大量に運ばれたことで、地域の食材、新たな地域の料理として料理店や家庭でも求められやすい食材となりました。
富山の売薬商は地方毎に「組」を組織して、薬を置いて、翌年使った分を徴収する「先用後利」の商法で行商を継続しました。
昆布と富山の薬は、北前船によって、「昆布ロード」の末端の薩摩藩に秘密裏に運ばれました。
運ばれた昆布によって薩摩藩に莫大な利益がもたらされ、やがて江戸幕府の倒幕に繋がっていきました。その歴史的ロマン(物語)の紹介です。
2024年10月(改訂)
第7章 水運・海運によって産み育てられた日本一の酒蔵・灘五郷(rensai07Nv1.pdf へのリンク)
灘五郷、全国で知らない人はない日本酒の産地です。灘の酒、灘五郷、なぜ、いつ頃から、その名が全国に響くようになったのでしょうか。
古来から都があった上方には、神に捧げるため、庶民が楽しむために、酒が造り出され、様々な酒造家が栄枯盛衰してきました。
そんな中で、灘五郷が産まれることになるのは、江戸時代の政治経済の変化の中で、いくつかの要因が重なっていったからです。
その影の大きな要因になったのが、灘の地を作った六甲山系からの付与された自然の恵みと水運・海運でした。
灘五郷が産まれ日本一の酒の生産地になるまでのロマンを訪ねてます。
2024年10月(改訂)
第8章 瀬戸内海の潮流の厳しさを味方にした塩飽の人の航海術と造船業(rensai08Nv1.pdf へのリンク)
瀬戸内海は、古来より人の移動や物資を運ぶ大動脈として、船舶が活躍した水域でありました。
3,000もの島々が現れては消える「多島美」の景観が楽しめる魅力は、実は瀬戸内海の表の顔に過ぎません。
瀬戸内海には、外洋の干満の差の影響で、潮の干満時に数ノットの潮流が生じる世界有数の航行が難しい「潮流海域」としての裏の顔がありました。
航海するには厳しい環境を克服しないと命すら失うことになります。
北前船にとって、大坂を出帆して、蝦夷地に向かうには瀬戸内海は絶対通過しなければならない海でした。
瀬戸内海の自然の厳しい裏の顔の背景を説明し、その厳しい環境での操船術や適した弁才船の建造に関わる塩飽の人のロマンを取り上げています。
2024年10月(改訂)
第9章 兵庫津を北前船の最終寄港の母港とした天然の良港性と北風家の奮闘(rensai09Nv1.pdf へのリンク)
大坂から、瀬戸内海、日本海を経て蝦夷地まで各湊で求められる物資を売買しながら往復した「買積船」を主体としたのが「北前船」です。
その北前船の最終寄港地の母港と言われるようになったのが兵庫津でした。
その要因となったのが、千石積みの船が停泊できる兵庫津の天然の良港性でした。
さらに、廻船業問屋として長らく兵庫津を支え続けてきた北風家という商人が奮闘してきたからでした。
今回は、兵庫津の天然の良港性とは何かと、北風家が活躍した時代の背景を探ります。
2024年10月(改訂)
第10章 北前船の母港にも「港都」にもなれなかった「水都」大坂(rensai10Nv1.pdf へのリンク)
大坂の陣によって豊臣家が滅亡し、天下の統一を終えた徳川幕府の手によって、大坂の町は新たに整備されました。
縦横無尽に走る運河網によって船運が機能し、新たに「水都」として発展することになりました。
政治の中心として参勤交代で人口が増えた大消費地の江戸との間は、活発となった船運で結ばれ、大坂が「天下の台所」と呼ばれることとなりました。
18世紀後半には大坂は、日本海を経て蝦夷地まで往復する「北前船」の起終点となり、国内の豊かな市場の形成に寄与するまでになりました。
しかし、明治時代の開港は兵庫が選ばれ、結局「港都」になれず「水都」も衰退しました。その背景を歴史から訪ねてみましょう。
「第3部 北前船と寄港地域のロマン(スポット編)」
北前船の寄港地とその周辺で北前船が運んだ物資がなぜ取り扱われるようになったのか。
あるいは、なぜ北前船を動かす主役の船頭や、船主になる人びとが出現したのか。地域を焦点にロマンを追及いたします。。
2024年10月
第11章 なぜ大聖寺藩から多くの北前船船主が誕生し活躍したのか (rensai11Nv1.pdf へのリンク)
外様の加賀藩と譜代の福井藩に挟まれた大聖寺藩は、大きな川も港もなく、山中・山城・片山津温泉以外には、農業を主体とした産業しかない藩でした。
日本海には面していますが、藩として海運事業を育成するのではなく、大坂への藩米の輸送も他の藩の船に依存していました。
このような状況下にもかかわらず、大聖寺藩内に北前船の船頭が育ち、何人もの大船主が誕生し、莫大な利益を得て、村を豊かにしました。
18世紀末から藩の財政が逼迫した際には、北前船船主は藩から苗字・帯刀を許され武士の扱いを受けた引き換えに莫大に資金を献上しました。
それらの資金等を下に、藩として財政改革や軍役改革を実施し、藩として明治まで存続することができました。
どうして大聖寺藩から多くの北前船船主が誕生し、活躍するまで至ったのかのロマンを追いかけました。
2025年1月
第12章 瀬戸内海の特殊構造から誕生した特産物と活躍した英雄(ヒーロー)(rensai12Nv1.pdf へのリンク)
瀬戸内海は外海である太平洋に紀伊水道と豊後水道と繋がるが故に干潮と満潮の潮位差がもたらす厳しい「潮流海域」であることは、既に説明しました。
もう一つ忘れてはならないこととして、瀬戸内海の誕生の過程で生まれた海や中国山地の構造の特殊性です。
その特殊性から派生した特産物が北前船の日本海や蝦夷地への下り荷となった関係を取り上げます。
さらに、「松右衛門帆」を考案・製品化した工樂松右衛門は、「海事技術の達人」と呼ばれて活躍した瀬戸内海が産んだ英雄です。
工樂松右衛門は北前船の船頭として、瀬戸内海の地形や環境を熟知したことで、蝦夷地や瀬戸内各地での港湾整備に貢献したことを紹介します。
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